「子どもたちをお風呂に入れる」

たとえば。

前処理:浴槽内お湯のセッティング、シャンプー・ボディーソープの準備、足ふきタオルの準備、拭くタオルの準備、子どもたちの着替え準備

 

本処理:子どもたちの服を脱がせる(もしくは本人たちに脱いでもらう)、裏返しになった服を元に戻す、洗濯かごに脱いだ衣服を入れる、おもちゃを入れていいかと聞かれたら、所要時間を鑑みて本人たちと交渉する

 

本処理2:浴室でシャワーを子どもたちにかけて、頭髪を洗う、体を洗う、終わった子どもから浴槽に入る、おもちゃを子どもたちが取り合ったらいさめる
急いで自分自身の頭髪、体を洗う、所要時間によっては自分は浴槽には入らない

 

後処理:子どもたちを洗面所に出す、バスタオルで各自の体を拭かせる、リビングに濡れたまま走り出そうとしたらつかまえる
子どもたちをパジャマに着替えさせる、髪を乾かす、浴室の電気を消す、自分はどこかで服を着て、髪を拭く(か、まともに拭けない)

 

まあ、子どもたち、子ども単体でも入れるようになったし、新生児、幼児、新生児&幼児、幼児幼児でもステップと例外処理は変わるけれど。

若葉芽吹くころ。

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例年より天気が悪い日もあり、お花見期間が長引いたものの狙ったように花見ができませんでしたが、気がつけば銀杏が若葉を日に日に増やしていました。

銀杏を見ると、研究室でイチョウから蛋白質を精製するために先輩の手伝いで採集に行ったことを思い出しますが、紅葉の季節にはよく父親に連れていってもらった神社の背の高い銀杏も思い出したり。季節感を植物と、植物にまつわる記憶から味わうのが地味に好きです。いつかそんなことも自分の脳は感じ取れなくなってしまうのかもしれませんが。

 

子どもたちは新しい学年となり、楽になったなって事柄と、そうでもないなって事柄と、うへえ~って事柄が増えたり減ったりしていますが、きっとトントン、なのかも。泳ぎきれるかな。地味に補給をしながらいきたいと思います。

チリとスープ

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Chilli parlar 9と、FACTORYのごはん。食べたらまたがんばろう、と思えるチリやスープやパン。

雑誌見ていて、行ってみたいなというお店を気に留めることがほぼなくなった。雑誌には、表参道、銀座、中目黒、…見目美しい店内や料理や新奇性があったりするお店。飲食店に限らずだけれど、行く機会ないな、と思うから関心が減るのだろうな。

そのかわり、写真が映す色合い、盛り付けを眺めているのは、整然としていない日常にとっては一時の気晴らしになるのかも。

はたらきかた

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先週、夫が高負荷が続いたゆえに体調不良を感じて、休暇を取ったり在宅勤務に切り替えていた。

高い負荷というのは時間的なものもあると思うけれど、質的なものもあるのだと思う。相手の話を聞いて、顔色や様子見て進言はできるのだけど、会議を欠席することや、他の人に頼むなど、横から見てる範囲でもいつもよりもしんどそうであった。

在宅勤務を今回まともにやって気づいたことなど話してくれた。場合によってはこのやり方を取るのもありだね、と。

 

このところ政治や経済界や報道などでは、働き方改革、ワークライフバランス、残業規制・削減など話題が沢山出ているけれども、果たして、睡眠や適切に休暇をもち、働き続け、生活が維持できる収入を得るという整備が本当に進むのだろうか。

時間の削減の話は盛んだけど、業務量や責務のマネジメントが問われていかないと、密度濃くして成果をあげることの要求、プレッシャーは強まるばかりだと思う。

 

おわりとはじまり

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二人姉弟の保育園生活がほんとうに終わりました。卒園式は3月中旬でしたが、31日まで通うのでやはり最終日は何とも言えない気持ちに。

その数日前に保育参加をしてきました。朝クラスに入ったら自分の子よりも、年少さんたち4人に囲まれ抱きつかれ、おせんべやけたかな、からスタート(縦割り構成なので年少~年長の複数クラス)。

その横でせっせと本人は折り紙折って渡してくれた、きつねとしゅりけん。

横の小さなきつねは他の子からのプレゼント。

 

なんて数日前があっという間に終わり、最終日はうるうるし、翌日は年長親子たちでにぎやかにご飯食べて、気づけば今日から学童保育

はじめて、のことは今年もどんどん押し寄せる。2つ上の子がいるので、親としての「はじめて」のいくつかは通過したけれど、子どもたちそれぞれの「はじめて」は続く。それを十分汲んであげたいものの、日常ってなんでその許容を簡単に埋没させてしまうのだろう。親の受け止め方次第でもあるのがむつかしい。

見える景色をどう見るか、その視点の持ち方は、不健康より健康、不安よりなんとかなりそうっていう見通し、時間の無さより時間が作れたという感覚、それに左右されるのです…

まぁ、なんとかなるかしら……独り善がりになりすぎないこと。