Hey Jupiter
こたえはない
GEM KINGDOMのアクセサリーが好きで、数を持ってるわけではないですが、お店に長めに行けた時はのぞいてしまう。
先日、そんなお店に行く時間が作れた日、会社の行事に参加することができました(こっちがメイン)。いつもはある時間リミットになったら退出し、夜の飲み会は本当に前もって調整がつけばOKといった状況ですが、今回はそれがかない。
そんな閾値が低くなってしまっている体なので、業務ではあまり関わっていない人と少しアルコールもはさみながら、雑談だったり、どうしてこの会社に入ったのかとかそんな会話を交わすと、ああ話せてよかったなぁと簡単にこの機会をめちゃ喜べるようになってしまいました…
何かを順番つけて優先を決めていく、それは時に何かを「後に」、何かを「ここで区切って」いく決断でもあります。そんなことを7年ほどやってきてしまった、これでいいんだろうか?そんな自問もし、今はこれでがんばっていこう、という自答もしたりしています。
単純だけど、ここで仕事をやれていて人と関われることがありがたく、役員で入社の頃から話しかけてくれる方が「子育てでもなく仕事でもない、自分の時間をこれからはもっと作れるように、大事にできるように」とアドバイスをくださったりして、手術の時には気にせず十分休んでくださいと言ってくれる上司がいて、おじさん多いけど、いいおじさんがいます(笑)。
でもどこかで、これでいいんだろうか?っていつも自分は思っているんでしょうね。それは答えのない子育てを、答えのない自分の生き方だから。
Love and Pain. ~石内都「Frida is」
資生堂ギャラリーにて開催されている、石内都さんの写真展「Frida is」に行ってきました。時間をちょうだい、と話したのは起床時。色々と今月この後、週末も夫の仕事が入る日が多く、平日はもちろんのこと、行けるタイミングあるかな…でも行けたらいいと思っていたのでほんとよかったです。
ひんやりしたギャラリーへと降りていくと、静かで(当たり前か)、人もまだ少なく、展示数は少なかったものの、身を置いて見ることができて何よりでした。
フリーダ・カーロの熱狂的なファンではなく、私は石内都さんの作品を何度か足を運べたのですが、この展示の少し前に上の画像の本「写真関係」を購入しました。「フリーダ 愛と痛み」もほぼ同じくして発売だったのですが、エッセイの方を。
フリーダの身につけていた服、装飾品、コルセット、高さの違う靴…浴室にあったという薬、化粧品…。鮮やかであるが静かである、そんな作品を眺めてきました。石内さんの作品を直接、あるいは写真集で見てきて、傷跡であったり、皺の寄る皮膚であったり、母の遺品であったり…そういう「もの」の佇まいは静かでありつづけている。でもその「もの」には、記憶が佇んでいる。その静謐さにいつも私は心ひかれています。
女性の表現者はいつの時代でもスキャンダルにまみれる。ましてやフリーダの時代、マッチスモの国メキシコでの女性の生き方は想像を絶する。彼女が真に考えていたことよりも、非日常の出来事を過大に持ち上げ、過剰に伝える。痛々しい物語でも、熱烈なロマンスでもない、フリーダが普通に息をしていた日常の生活が私を待っていてくれた。長い長い日々のなんてことのない時間の積み重なるカタチと、身体の苦痛、精神のうずきと悲しみ、瞬間の喜びと運命的な短さを切実に現実として絵画に描いた一人の女性の表現者がいたのだ。今でも脈々と息づいている彼女の濃密な生命への尊厳とアイデンティティに対する純粋なまなざしを、彼女が遺したすべてのもの達から感じないではいられない。
(中略)
女性の表現者という生き方への多くの誤解や中傷がどんな時代でもあまり変わることなくある現実をわが身にてらして考え、六十年前に四十七歳で亡くなったひとりの女性アーティスト、フリーダ・カーロは、いま私に大きな勇気と希望を与えてくれたのである。
(「写真関係」石内 都)
母性愛神話とのたたかい - 大日向雅美
大日向さん自身の「母性愛神話とのたたかい」はここからだそう。 pic.twitter.com/K5aeYAF4Dj
— sharon-lily (@_daisylily) 2016年6月7日
たしかタイムリーにTLでも母性愛神話とか3歳児神話のことも出ていて、借りるつもりなく書架を見ていたらあったので借りた本。
続きを読むもっとがんばれるはず、と。
先日、あるイクメンの会の責任者の方とお話をする機会がありました。そのとき、「僕は思春期のころに、母親がとても困った人だと気づき始め、家を出ることにしたんです」というので、てっきり専業主婦かと思いながら話を聞いていると、そうではありませんでした。
「仕事も続けて、しっかりと子育てもやり抜いたという自信が、かえって自分(わが子)に、もっとがんばるべきだと厳しい要求をしてくるので困った。今は、結婚して子どももふたりいるが、孫に対してもおばあちゃんとしてのやさしい受容はなく、嫁に対してもがんばりを求めるので、あまり近づかないようにしている」という息子としての手厳しい母親非難の言葉でした。
このように、仕事をしている、していないにかかわらず、一世代前の母親たちが置かれていた境遇が次の世代の子育てに影響していることは否めません。子育ては、誰かの評価を気にしながらひとりでがんばるものではなく、みんなに助けてもらい、感謝しながら楽しんでいくもの、という心地良い連鎖に変換する役割を保育者が請け負うことから、子どもたちの安心と安定と”のびのび”の保障ができるのかもしれません。
自分自身のがんばりは自信を生む、それは悪いことばかりではないのだけれど、自分を指標にしがちな危うさは自戒をこめつつ。
自分を子どもをはかるものさしにしない、ということのむつかしさを、感じます。