<主婦>の誕生―婦人雑誌と女性たちの近代
木村涼子(大阪大学大学院人間科学研究科教授)
新聞の著者紹介にて知った書籍で、図書館で取り寄せてみました。 ボリュームもあるので、気になるところを引用しておきます。 近代の「主婦」像に大きく貢献した婦人雑誌(主に『婦人公論』『主婦之友』)の分析をされており、なかなか興味深いです。 「男は仕事、女は家庭」「専業主婦」「良妻賢母」という価値観がどのように形成、合意されていったのか。それらが「有無を言わず当然」「当たり前」という捉え方はこれらの価値観が刷り込まれた世代に育てられた多くの男女が引き継いでいっているのかもしれません。 今後の世代が変わっていくことにおいても、マスメディアのメッセージというものは少なからず影響を与えていくのだと思われますが、マスメディア以外の情報や知識も得られる現代、男性も育児や家事、イクメンや夫婦共働きといったライフスタイルが今後どのような価値観を作り出してゆくのか。 このブログではあまりテーマとして設けてないのですが、twitterサイド(@_daisylily)でアンテナ張ってますので参考図書としてここに挙げておきます。
<目次>
1 ジェンダー化されたメディアの世界―女性読者層と女性向け商業雑誌の誕生 (ジェンダー秩序の形成とマスメディア 女も読書する―女性向け大衆雑誌の登場 婦人雑誌がえがく近代の女―「モガ」と「主婦」)
2 婦人雑誌がつくる「主婦」―メディアと女性読者が結んだ三つの関係 (有益)(修養)(慰安)(大衆婦人雑誌の三つの相―メディアと読者が結んだ関係 主婦の技能(有益の章) 主婦の規範(修養の章) 主婦のファンタジー(慰安の章))
3 「主婦」であることの魅力―メディア空間と日常の統合 (「主婦」と「良人」の甘い生活 統合の象徴としての「主婦」イコン―雑誌を飾る美人画) 近代のイデオロギー装置としての婦人雑誌
「近代家族」の特徴として、「家内領域と公共領域の分離」「男は公共領域・女は家内領域という性別分業」「家族成員相互の強い情緒的関係」「子ども中心主義」などの諸点を上げている。 私たちは通常、「家族」とは外部世界への進出の拠点となる「巣」であり、すなわち「ソト」に対する「ウチ」であり、その内部では緊密な連帯感が共有されているものだと考えている。(中略)そうした家族において、男性が生計維持者として「ソト」で働き、女性は「ウチ」を守って家事・育児をこなし、「暖かい団欒」を維持する責任を負う。一見自然に見えるそうした家族像は、実は、近代になってつくりあげられた比較的新しい歴史的産物なのである。 (1 ジェンダー化されたメディアの世界)
『主婦之友』 家庭においても、ふだん特にトラブルの生じていない時には夫婦は互いに尊重・敬愛しあうことを理想とし、夫と台頭な主婦像が描かれるが、ひとたび「家」が危機に陥ったならば「家」のために忍耐し、自己を犠牲にする儒教的婦徳が前面に押し出されるという、使いわけがおこなわれているのである。こうした使いわけは、一般的な主婦論・家庭論や軽い読み物で平時の主婦を描き、ヒューマン・ドキュメンタリーや読者からの投稿特集など実話部門で非常時の「日本の名婦」を説くという形態をとってあらわれる。 (中略) 幸福な家庭の明朗活発な主婦像と、我欲を殺して「家」のために献身する儒教的良妻賢母像-『主婦之友』が提示した女性像はそうした二重構造を有していたのである。
近代社会が提示した女性の新しいライフスタイルは、社会的な孤立を女性に強いるものであった。「男は仕事、女は家庭」という性分業によれば、学校卒業後、男性は高等教育機関や軍隊、官庁、工場、会社など、その他の近代的な組織に参入していくのに対し、女性の場合は専業主婦という新種のカテゴリーの囲い込まれてゆき、家庭の中で孤立することになる。 (中略) そうした男女の分業体制の確立とともに、女性も生産・共同作業の場に参加していた前近代社会において成立していた女性独自のコミュニケーション世界、「女の世間」も縮小あるいは消滅していくことになる。一方、新たに登場した近代的主婦については、その職業に必要とされる実用知識や技能、およびモラルの体系が未確立であるにもかかわらず、それらを構築し伝達、共有する職場集団は当然のことながら存在しなかった。役割の私的領域化による女性の社会的孤立が、マスメディアによって構成される準拠集団の形成を必要としたのである。 (2 婦人雑誌がつくる「主婦」)
・・・「◯◯であり、かつ△△」と、メリットが二つ重なるような表現が特徴的に用いられている。メリットが二つ並べられるだけでなく、「◯◯」と「△△」の組み合わせは一見両立がむずかしいように見えるものが多い。「素人でも出来るほど簡単」であったり「安価」であったりするにもかかわらず、「格好がよい」「美味しい」「風雅」とすばらしい出来映えを獲得し得るといった、読者にとって大変「都合のよい」結果を示す殺し文句となる。 (中略) こうしたキャッチフレーズが体現しているのは「一挙両得主義」とでも名づけたくなる、実用記事に通底するエートスである。 (中略) 実用記事は技能や知識を提供するとともに、そうしたモダニズムの精神を家事労働に吹き込む機能を果たしていた。ただし、ここで扱う家事労働に関わるモダニズムは、性分業という近代的なジェンダー秩序を前提としている。実用記事の一挙両得主義が読者に伝えていたのは、市場で商品を購入したりサービス業を利用したりするのではなく、家庭の主婦がみずから無償労働でおこなえば「安価」で「質のよい」成果を得ることが可能になるというメッセージである。「アマチュア」の主婦でも、ある程度の労働量を投下さえすれば、「プロ」に近い、あるいは「プロ」と同等の、質の高い生産物がつくれる。「アマチュア」の主婦の仕事、つまりは無償労働であるからこそ、経済的な投資は最小限におさえることができる。一挙両得を実現するための主婦の無償労働を、婦人雑誌はサポートしてくれるのである。 (2 婦人雑誌がつくる「主婦」)
主婦は、近代になって発達した各種の職業を網羅的に兼業する。すべての領域に秀でた「アマチュア」、それが「主婦」にもとめられた姿だ。「プロ」並のすぐれた生産物やサービスを生みだすことをもとめられようとも(そしてそれを実現しようとも)、主婦は家族という「私的領域」で「愛の労働」(すなわち無償労働)をおこなう「アマチュア」でなければならないのだ。婦人雑誌による実用記事の充実は、膨大さによって、「アマ」でありつつオールラウンドの「プロ」という非現実的な主婦の理想像を扇動するプロパガンダの役割をも果たしていたのではないだろうか。 (2 婦人雑誌がつくる「主婦」)
良妻賢母主義は、すでに何度か述べたように、戦前の女子教育の基本原理とされたものであり、一言で言えば、女性の本来的な役割は「良妻賢母」として内助の功を尽くすことだという考え方である。それは、「男は仕事/女は家庭」かつ「男は公/女は私」という性別役割分担と、封建的な男尊女卑の近代バージョンである男性優位の性差別主義が合体したイデオロギーである。ただし、学校教育のみならずマスメディアなど言論の世界で重視され盛んに論じられた「良妻賢母主義」は、男女は役割が異なってはいるが平等であるという考え方と、男女は能力や特性が生来的に異なっているため平等ではないという考え方の間を揺れ動いていた。その揺れは、「賞賛されるべき女性」の記事が提示する、女性向けの規範の中にもみられる。女性は家や男性に仕え自己犠牲すべきというメッセージが強調されるかと思えば、女性であっても男性と同じく立身出世を目指したり、男性とともに実業界で成功したりすることができるというメッセージもあちこちにちりばめられている。 最終的にすべてのタイプに共通するものとして印象に残るのは、「苦闘」「奮闘」「奮起」といった息苦しさを感じさせる言葉の波である。主婦として幸福な生活を送りたいのであれば、とにかく「がんばれ」「努力せよ」と呼びかける。 (2 婦人雑誌がつくる「主婦」)
婦人雑誌は「良人に愛される妻」にならねばならないと説く。「永久に良人に愛される妻」とはいかなる妻なのかが、婦人雑誌の一大テーマである。 (3 「主婦」であることの魅力)
主婦は「空白」を抱えた特殊な労働である。主婦は、組織に属さず、命令系統もなく、上司も同僚もなく、孤立している。その職務はどこにも規定されておらず、こなした業績に対して組織的な評価を受けることもなく、昇進もなければ降格もない。もちろん経済的な代償を直接的に得ることもない。主婦労働は、近代社会のほとんどの職業とは異なり、まさに「無い無い」尽くしのめずらしい位置におかれた「職業」である。 (近代のイデオロギー装置としての婦人雑誌)
また、婦人雑誌の誌面を多面的に分析した結果見えてきたことは、イデオロギーは「上から注入する」というよりも、三つの相の混合の内側から「発生/生成(generate)」してくるというイメージである。メディアが「主婦」になることを読者に強制することはあり得ない。しかし、本書で取り上げた婦人雑誌が、「主婦」というライフスタイル/職業に向けての社会化機能を有していたことは明白である。 (中略) メディアの受け手は、強制される感覚をもつことなく、しかしながら、確実にいずれかの方向に導かれ、歩みをすすめていることに、いつかふと気づく。イデオロギー装置としてのマスメディアのこれらの特徴は初期近代に百万部といった記録的な発行部数を誇るまでに発達した個別メディアたちが、互いに競争しながら手探りで構築した成果であるが、その後現代に至るまで、それらの骨格なり断片なりが引き継がれ、いまもなお力を発揮している。 (近代のイデオロギー装置としての婦人雑誌)
そして、今の女性の本来の役割が「主婦」だとされるのは、どうしてなのか。 (中略) しかし、近代的なジェンダーはゆらぎつつも、その基本秩序は維持されている。かつて母に女性の生き方は「主婦」になることしかないと思わせ、今「主婦」以外の道を選んだ私に(肯定的に評価されるにせよ、否定的に評価されるにせよ)どこかしら居心地の悪い思いを与える、情報や価値観の網。この「第二の自然」がいかに機能しているのかを知りたい。なぞを解く鍵が、過去の日本社会を分析することによって得られるのではないかと考えた。 (あとがきより)