サマー・コンプレックス
僕は昔からそれを「サマー・コンプレックス」と呼んでいるのですが、夏を強く感じさせるものを見るたびに憂鬱になるという人が結構おりまして、その人たちがいうには「自分は『正しい夏』を送ったことがないから」憂鬱なのだそうです。彼らの使う「正しい夏」という概念、僕はなんだかすごく好きです。
— 三秋 縋 (@everb1ue) 2015年6月25日
このツイートを見た時に、「サマー・コンプレックス」「正しい夏」という言葉に目が留まったのですが、私のもつ「夏」は、16の年に出会った曲であり、詩であった。
新しい夏がやってくるそして新しいいろいろのことを僕は知ってゆく美しいこと みにくいこと僕を元気づけてくれるようなこと 僕をかなしくするようなことそして僕は質問するいったい何だろういったい何故だろういったいどうするべきなのだろうとしかしネロもうじき又夏がやってくる新しい無限に広い夏がやってくるそして 僕はやっぱり歩いてゆくだろう新しい夏をむかえ 秋をむかえ 冬をむかえ 春をむかえ更に新しい夏を期待してすべてのあたらしいことを知るためにそして 全ての僕の質問に自ら答えるために-「ネロ」 谷川俊太郎
7月は祖父の命日があり、生まれて初めて迎えた葬儀であり、真夏だったのもあるけれど、私にはなんだか、この季節、「夏」と「死」がこの詩によって毎年よみがえるかのように感じてここまできています。
ネロのように犬は飼ったことがないけれど、飼っていた愛猫がひとしれずある日姿を消し、そして二度と戻ってこなかったことも、私は多分重ねているのだと思います。
そんなの、この歌(※合唱曲)に当時16の私が出会って(練習しだしたのは秋~春であった)、言葉と重なる4声が強烈に結びついた超個人的な記憶でしかないのですが、これから出会う「美しいこと みにくいこと 元気づけてくれるようなこと 悲しくするようなこと」、そして自問、自答。「いったいなんだろう いったいなぜだろう いったいどうするべきなのだろうと」をいつまでも反芻し続けています。
不思議と、この歌の録音をときどき聴くと、ここのところの言葉に励まされていて、この先いくつまで私は励みにしていくのでしょう。
いつかこの歌を歌ったことすら忘れてしまうのかもしれません、夏が来ても。